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元統治体員の同性愛疑惑

元統治体員の同性愛疑惑



 元統治体メンバー 、エドワードとしても知られるエワート・チッティ は、1980年に彼自身の同性愛癖がブルックリンベテル内で広く知られるところとなった後に辞任しています。同じく元統治体メンバーレオ・グリーンレス も辞任しています(出所:フレッド・フランズのアシスタントであったロジャー・スコットの証言、M ジェームズ・ペントン著“Apocalypse Delayed(遅れた啓示)”、Hourglass2 Outpost のウェッブサイト等)。

 カトリックで類似した状況で同時期に同じこと(児童性虐待)が起こってきたという課題が残りはしましたが、チッティとグリーンレスは同様の問題で排斥されることはなく、依然として現役のエホバの証人として組織にとどまることが許されたということです。1969年3月には60人の同性愛者がブルックリンベテルを去りましたが、当時のものみの塔協会会長ノアはこの事実を伏せるよう強く緘口令を敷きました。



エワート・チッティ
 統治体元メンバーエワート・チッティは1898年に生まれ、1979年にその地位を降りました。彼は英国ロンドンのベテルに1921年に入り、「オフィス内での仕事(その中でも同性愛行為はなされていたでしょう)を始め、1938年までには公的ないくつかの地位を持つようになりました。

1942年までにはチッティは国際聖書研究生協会(IBSA、ニューヨークのものみの塔聖書冊子協会のイギリス版)の書記官になりました。
 いくつかの経緯を経て彼はIBSAの書記官兼会計責任者に任命され、1974年11月に統治体メンバーに任命されるまでこの地位に留まりました。1979年の彼の統治体からの脱退の後、チッティはブルックリンの対外文書部門に留まっていましたから、依然現役のエホバの証人だったということです。

 1981年の目ざめよ!誌の記事ではチッティが「隣人愛と神への愛を失ってしまった人々」についてコメントしています。彼の近しい知人によると、この時までチッティは明らかに酒びたりであったということです。おそらくそのことが彼をブルックリンから追放し数年後ロンドンベテルへ再派遣することにつながったと思われます。彼はそこではほとんど責任ある仕事をしませんでしたが、会衆の長老には任命されました。チッティは1993年に死亡しています。

 チッティの同性愛性癖についての申し立てについて、彼は1963年にものみの塔誌内の自身の体験話の中でこの方向へ向かう傾向があったことについていくつかの発言をしています。その時まで彼は同じ30年間同じルームメイトと暮らしていました。ブルックリンにいた時は、チッティは若い男性をルームメイトとして好んでいたようです。元ルームメイトによってチッティに対して向けられた非難は統治体の知るところとなりました。

 この非難は幾種類かの不適切な行いを含んでいます。統治体は、チッティがそれが何を意味するかということは別として同性愛傾向があると結論付け、彼に辞任を要求しました。チッティは自分の処分にほとんど対抗することができず、統治体の他のメンバーの意向に従いました。既に81歳になっていた彼は、58年もいたブルックリンベテルをあとにするしか道は残されていませんでした。  これは結局のところ統治体がチッティが同性愛的行動について有罪であるという見方をしなかったということでしょうし、また彼らは一種の取引をしたということでもあると思います。チッティは彼の残りの老いぼれ老人としての生活を協会が面倒をみる限りにおいて「死者の体がどこに埋められているかということについては沈黙を保ったことでしょう(彼の死後、彼の同性愛疑惑が取り沙汰されることのないよう、協会はダンマリを決め込んだ、というような意味だと思われる)。」



レオ・グリーンレス

 元統治体メンバーレオ・グリーンレスは1984年後半に辞任させられベテルを去りました。彼は1936年にカナダベテルへ入り、カナダ支部とカナダのIBSA支部双方の会計責任者になりました。1964年にブルックリンベテルへ入り、1965年には1965年には協会ニューヨーク法人の監督官に選ばれました。
 監督官となったため、統治体が1971年に正式に設立されたのでグリーンレスは自動的に統治体メンバーとなりました。彼はギレアデ宣教学校の卒業生によく話しをし、ペンシルベニア州ピッツバーグのスリーリバー・スタジアムで1984年10月6日に行われたのものみの塔協会百周年の集まりでは締めくくりの演説者となりました。1982年のものみの塔誌は、彼が統治体内の教育委員会にいることについて述べています。グリーンレスの協会出版物の中での最後の言葉は1984年12月1日号において9月のギレアデ卒業生に修了免状をどこで授与したかについてでした。

 1984年後半において、グリーンレスは10歳の男の子を性的に虐待したことで残りの統治体メンバーに糾弾されました。少年の両親が協会に苦情を出したため、協会もやむなく行動を起こしました。グリーンレスはその家族の友人で、彼らの家を何度も訪れたことがある親しい間柄だったのです。
 ベテルを去ってから、グリーンレスは特別開拓者として奉仕しルイジアナ州ニューオーリンズの中心部の会衆で長老となりました。彼は1980年代後半に死亡しています。

 面白いことに、グリーンレスが虐待した少年が1991年頃にベテル奉仕を志願した際、少年の志願は拒否されています。ものみの塔協会の指導者たちは明らかに他のベテライト(ベテル奉仕者)たちが彼が犠牲者当人だと知らずに彼にグリーンレスについての噂を伝え、公正が行われていなかったことをその少年が知るようになることを恐れたのです。



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