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落合直文先生を偲ぶ


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落合直文先生を偲ぶ 
金子薫園 〔オチアイ ナオブミ センセイヲ シノブ カネコ クンエン〕


 私は先づ私が十七歳の秋、落合直文先生〔オチアイ ナオブミ センセイ〕の門に入った時の事を振り返ってみる。
 私は初めて先生にお目にかゝって、一生懸命で次のやうな事を申上げたと記憶する。臆病な少年でひとの前で碌々ものも言へなかった、はにかみやの私が、よく誰の紹介もなしに高名な先生をおたずねして、腹一杯な事が言えたものだと不思議に感ずるほどである。要するに私はそれほど真剣で、命がけであったのだ。
 「先生、私は父から見はなされました。父は私が文学の素質が無いと言い切って、平凡人の一生を託するような安全な道に就けと言うのです、私が先生のお書きになったものを敬愛して、先生のようにえらくなりたいと申しますと、父は驚いたような顔をしましたが、やがて冷ややかな笑みを浮べて、そんな途方もない望みを懐くもんぢゃない、お前のような平凡人が先生のような堂々たる大家になろうなどとは、余りに甚だしい少年の空想だと言って、さんざんに扱き下ろしました。父は私に思い返させようとして言ってくれたのでしょうが、その時の私は涙がとめどもなく流れるほど、口惜しく(くやしく)てならなかったのです。そして私は心の中に誓いました。屹度〔キット〕先生のようになって見せる、死んでも!! と。そうして、私は先生のあらゆるお書きになったものを繰返しゝゝ読み味わって、先生のお歩みになっていらっしゃる大きな道について進もうとしました。
 先生、私は父の申すように大それた非望〔ヒボウ〕を懐く〔イダク〕者かも知れません。然し〔シカシ〕、こうなってはもう命がけです。死んでも父の言葉を見返さなければなりません。先生、どうかこの一途の私を憐れんで〔アワレンデ〕、御指導下さるようにお願いします、」
 先生は私の申上げるのを黙って聴いて居られたが、やがて微笑して、
 「お父さまの言はれることも尤もだし、君の発奮〔ハップン〕されるのにも意味がある。この発奮は一時的でなく、永久にこの意気を持続して志す一路に邁進(まいしん)しなければならない、君は「私のように」と考えられているようだが、落合は落合、金子は金子でなければならぬ、君はどこまでも君の個性を発揮して、大きな器となるように期せられたい。重ねて言うが、君はこの意気をいつまでも忘れてはならない。これからの進路には荊棘〔ケイキョク〕が多い、これを押しのけて進むのは、この意気だ。若さだ。大いにやるんだ。」
と元気づけて下された時は、勿体(もったい)ないような、有難い〔アリガタイ〕ような、私の心はもう喜悦〔キエツ〕と感謝で一杯であった。
 この時、私の目の前(まえ)にぼうっと浮かんだものは、父が見違え(ちが)たと言って、ひどく驚いた表情をした顔の輪郭であった。
 然しこの活動の大写しのような輪郭はすぐ消えた。

        ×

 ついで私は、私が第一歌集『片われ月』を出した当時の事を振り返ってみる。
 今日では歌集を出すのは容易になったが、私がこの『片われ月』を出した頃は、そう軽々しいものではなかった。新しい派で歌集を出したのは与謝野鉄幹〔ヨサノ・テッカン〕氏の『東西南北』と『天地玄黄』〔トウザイナンボクとテンチゲンコウ〕ぐらいなものであったから、先輩や諸友に勧められても、なかゝゝおいそれと引き受けられなかった。私は思案に余って、落合先生をおたずねして、恐るゝゝお伺いしたのであった。先生から、「まだ早い」というお言葉があったら早速撤回するつもりでいたが、そういうお言葉が出たら恥かしくて先生にお目にかゝることが出来なくなりやしないかと惧(おそ)れていた。しかし意外にも先生は却って〔カエッテ〕喜んで下されて、原稿に一度眼を通(とお)そう、序文も書いて下さるという重ね重ね有難いお話しだったので、私は涙ぐましいばかりの気持ちで、先生の許(もと)をまかり出たのであった。
 先生がこの時もし、一言(ひとこと)でも否定なされたとしたら、私は無論、この集を刊行〔カンコウ〕しなかったろう。それのみか、この後とても歌集を出そうというような気持は起さなかったかも知れない。意気が沮喪〔ソモウ〕して、或〔アルイ〕は歌を廃するようになったかも知れないとさえ想〔オモ〕われる。先生が、この私の気持を察しられて、まだ早いとはお思いになりながらも、お喜びになって私の萌え出ずる〔モエイズル〕芽をのばして下されようとなされたことは、私が今日ある所以で、先生を偲ぶ毎〔タビ〕に、いつもこの一事に深い感銘を覚ゆるのである。
 この時、先生の門下には、与謝野鉄幹氏が雑誌『明星』を出して、新しい歌を鼓吹〔コスイ〕される一方には、いかづち会〔イカズチカイ〕の久保猪之吉〔クボ イノキチ〕、服部躬治〔ハットリ ミハル〕、尾上柴舟〔オノエ サイシュウ/シバフネ〕、氏等が作に評論に歌壇〔カダン〕の注目を惹いて〔ヒイテ〕居った中に、微々たる私が歌集を出すといふのだから、先生の厚い推奨〔スイショウ〕があったとしても、私は気怯(きおく)れがしてならなかったのである。然し、先生のお心持を唯一の力として、私は歌集を出すことに決した。
 そして私が、この歌集の原稿を携えて〔タズサエテ〕、先生を駒込浅香町〔コマゴメノアサカチョウ〕の邸にお訪ねしたのは、明治三十三年十一月の末〔スエ〕の夜であった。冬の来たことを想わせる、袖に霜〔ソデニ シモ〕を覚ゆるような寒い夜であった。その夜の事は、『片われ月』の先生の序に、左の如く書かれてある。

 さ夜ふけて門を叩くものあり。書斎を出ずれば、庭上の霜、雪の如く〔ゴトク〕、築山〔ツキヤマ〕の松に片われ月、影さむくかかれり。飛石ずたい、柴折戸〔シバオリド〕をひらき、門にゆきて、誰なるぞといいしに薫園〔クンエン〕なりという。
 
 懐かしい浅香町のお邸の一部は、この冒頭の一節によく描かれて〔エガカレテ〕いる。広いお庭の狐色に枯れた芝生〔シバフ〕、築山の松、飛石、柴折戸――私にはほんとうに懐かしいものである。たゞ、「庭上の霜、雪の如く」は文字のあやで、そんなに霜は白くなかったと思われる。この一節は、当時の美文〔ビブン〕というものに、先生のような一代の先覚者〔センカクシャ〕も囚われて〔トラワレテ〕居られた〔オラレタ〕ことを想わせる。が、私にはそういうことはどうでもよいのである。萩の家〔ハギノイエ〕――浅香社(あさかしゃ)――そうした懐かしい名が、この文の中から私の頭(あたま)にしみつくように感じられた。

 「誰なるぞといいしに云々〔シカジカ〕」師弟〔シテイ〕の情味〔ジョウミ〕の濃やかさ〔コマヤカサ〕を、この一句に窺う〔ウカガウ〕ことが出来よう。先生はその門生のすべてに対して厚かったが、私は特に愛せられたのであった。先生は夜遅くまで書見〔ショケン〕や執筆をされていた。少し遅いなと思ってお訪ねしても、寝(やす)んで居られるようなことは殆ど〔ホトンド〕なかった。いつまでも長坐〔チョウザ〕しても先生は睡(ねむ)そうなお顔一つされなかった。(不快なお顔などは、長年(ながねん)たゞの一度もされなかった。)これが、お書き出しの「さ夜ふけて云々」に応ずる。然し、こゝの「さ夜うけて」は文飾〔ブンショク〕に傾いて〔カタムイテ〕ゐた、まだ八九時の頃であったから、更けてはいなかったので、長坐して更けたのである。お書斎はその頃、先生の好みで建てられたお庭の中の瀟洒〔ショウシャ〕な離室(はなれ)で、先生はこゝで永眠せられた。――悲しくなって来る――序文のあとを左につゞけよう。

 いかなる用のありてかくおそくはといいつつ伴い来て内に入れぬ。薫園、人のゝめによりわが歌集を世に出ださむ〔イダサム〕と思えり、先生の意はいかにという。それよからむといいしに、懐〔フトコロ〕より一巻をとりいだしたり。

 「かくおそくとはいいつつ云々」先生の温情を偲ばせるものがある。病弱であった私に対して、先生はいつも労(いた)わり慰め〔ナグサメ〕られた。肉親の愛に饑(う)えていた私は、先生を父親のように思った。そういう間であっても、今度の歌集発行のことは、余りあつかましいようで一寸言い出し得なかった、然し、頬〔ホホ〕をほてらして、思い切って言った時、先生は事もなげに「それはよかろう」と言われた。先生のお叱りを覚悟していた私は、何とも言えない心の和(やわ)らぎを覚えた。「それよからむ」という一語は、実際その時のお言葉をよく表している。一寸こゝで断っておきたいのは、「人のすすめにより」から「それよからんといいしに」までは、前の日の事柄であるのを、文章の行きがかり上(じょう)、この夜のことにされたのである。

 見れば、歌の数四百首〔スウシヒャクシュ〕にあまれり。こはまた多きに過ぎずや、半にてもよからんといいしに、取捨〔シュシャ〕してたべという。こゝに灯明をあかくして思うまゝに削りゆきしが、薫園は終始傍に〔カタワラニ〕ありて、おしげに見てあり。

 こゝが序文〔ジョブン〕一篇〔イッペン〕の眼目〔ガンモク〕ともいうべきところで、深夜灯下、先生と私とたゞ二人、天地闃寂(げきせき)たる中に相対していた時の私の心持は、今もありゝゝと想い浮べることが出来る。
 「半にてもよからんといいしに取捨してたべという。」何という情諠〔ジョウコン〕の濃やかなお書き方であろう。実際そうであったのだ。涙を浮べずには居られない。「薫園は終始傍にありて、おしげに見てあり。」の「おしげに見てあり。」はその時の私が如実に描かれていると共に、先生が愛児に対するような温かさ、親しさを沁々と思わせるものがあろう。当時、蒲原有明〔カンバラ・アリアケ〕氏がこの一句を特に推賞せられたのを記憶する。こういう先生を持った私の幸福を思わずに居られなかった。

 よみおえて後、薫園にむかい、いにしえより歌よみがか歌集を出だせばそれにて満足するゆえか、その後の歌はわろくあんるのみなるが如し。ぬしは年まだわかし、これより苦心したまえといいしに、うけたまわりぬという。

 これは、第一歌集を出す人の何人にも適切な訓戒である。歌集を出すまでは張り切っていた心持が、出してしまうとほっとして、その後は作がなく、強いて作ると、感興のない、力抜けのしたものになったりする。先生の訓戒は私の身に徹して、今でも忘れることが出来ない。私が永く歌を続けて、精進の念を忘れなかったのも、この時の御訓戒が一に私の心を打って離れなかったからである。
 この序文は、先生が草稿から私に口授(くじゅ)されて、私が筆記したものである。それは十二月の初めで、よく晴れた日の午前、先生の書斎に於いてである。四十雀(しじゅがら)であろう、枯萩の枝にとまってゆれている影が、白い障子に映っているのも、冬の日の午前の静かさであった。句読(くどう)点の打ち方のやかましい先生はいゝか句読点。と、細かしく言われたお声が、私の耳にも今も懐かしくしみついているようである。その原稿は、私の筐底〔カゴノソコ〕に当時を追懐〔ツイオク〕する又なきものとなって蔵されている。

         ×

 新しい派の歌集の刊行はめづらしかつたので、私の『片われ月』に対する毀誉褒貶〔キヨホウヘン〕の声は随分かまびすしかった。私は黙ってその声を聴いていたが、中には随分きゝ苦しいことを言う人もあった。同門で某誌の記者をしていた人が、率直な言い方をしたつもりかも知れないが、少し手ひどい批評をした。それが同門の人だけにうらさびしく思っているのを、先生はお察しになって、或る時お目にかゝると、「あんまり賞めた評ばかりでも曲がない、たまにはあんな評が出るのも面白くはないか。」と言われたので、私の気持は朗らか〔ホガラカ〕になった。そうして私は、こんなにまで私の事を考えて下さる先生に対し、感謝の辞も知らないくらいで、先生の許を辞して出た私の眼は涙で曇っていた。
 その後、先生は帰郷されたが、短い御滞在中、私にお葉書を下された。それには次の如く書かれてあった。
  『片われ月』の崇拝者仙台にはきわめて多し。我当〔ワレラ〕の名誉というべし。
 お言葉は少ないが、お心持にはさびしい弟子の心を引き立たせようという無量のおもいが籠っている。私はこのお葉書の上に又しても涙の下るのを覚えた。
 同門ではあったが、親しく物を言う機会を持たなかった久保猪之吉〔クボ イノキチ〕が、読売新聞の日曜付録に三回に亙って〔ワタッテ〕慇懃懇切〔インギン コンセツ〕を極めた『片われ月』の批評を書いてくれられたのも、忘れがたい思い出である。氏は集中に出ている、先生の安房〔アワ〕に居られた頃私の差上げた歌を抜き出して、濃やかな師弟の情宣を推称されたと記憶する。
  安房といえばわが祖父(おほじ)の国その国にわがなつかしき師(し)の君(きみ)います
  同じ世に生れあいたる嬉しさは我も御弟子(みてし)のつらに入りぬる
  師(し)といわばただ大かたに人や見ん親のなさけもかねませるかな
思ったまゝの歌、生地〔キジ〕のまゝの歌、こういう作が『片われ月』には多かった。

         ×

 それから先生はずっと健康がすぐれにならなかった。近い海岸のあちこちに転地されていたが、どうも捗々(はかゝゝ)しくなかった。東京へ帰られてから糖尿病〔トウニョウビョウ〕と決定して駿河台〔スルガダイ〕の東洋内科病院へ入院された。それでも病勢はまだ進まれなかったので、学校へもそこからお出(で)になり、散歩など自由にお出来になった。向島〔ムコウジマ〕の百花園〔ヒャッカエン〕へ秋草を見にお伴〔オトモ〕したり、上野の白馬会へもお誘いしたりした。その頃の百花園まだ秋草が見事で、先生のお好きな萩がまっさかりであった。その日、書家の結城素明〔ユウキ ソメイ〕氏や、楽焼家〔ラクヤキカ〕の山田寒山〔ヤマダ カンザン〕氏などが来ていたので、歌と絵を即座に焼いたものを、先生は御覧になって、御機嫌が美しかった。長堤の往復のお歩きにもさしてお疲れが見えなかったので、私は安心し、御恢復の近きを想ったのであった。
 その日、湯呑に素明氏が萩を描(か)いたそばへ、私は即興の歌を書き添えたのであるが、先生はそれをじっと見て居られたので、叱られるのじゃないかと思った。然し、帰りにほめて下されたのでほっとした。私はこれまで即座に歌を作ることに慣(なら)はなかったから、素明氏が手際(てぎわ)よく萩を描いて出された時、当惑したのである。作って書いたことは書いたが、非常にまづいように思っていると、先生のお眼がじっと留(とま)ったので、恐れをなしたのである。
 それは秋晴れの、陽がまだすこし暑い日であった。先生のおやつれしたお顔にも汗がにじんで見えた。

         ×

 白馬会へお供したのは、それから間もなくであった。
 岡田・和田・三宅氏などが前後して帰朝した当時で、白馬会はこれらの諸家の新しい絵の匂いを求むる人々によって賑わった。
 岡田氏の、裸体の少女が椅子によって読書している油絵や、三宅氏の、郊外の風景を描いた水絵などが呼び物であった。
 先生は一々御説明しながら場内を廻ったが、先生はいゝともわるいとも、てんで物(もの)を仰(おっ)しゃらなかった。私は興に乗って、しゃべりすぎるくらい喋ったので、御機嫌を損じたのじゃないかとさえ思った。
 場内の人いきれに蒸(む)されて先生は少し上気されていられたので、急いで外に出ると、上野の秋の夕ぐれ近い風は気持よかった。葉の紅くなりかけた桜の木のかげの茶店へ、先生を請(しょう)じた。お疲れのように見えたが、しばらくして次のような事を語られた。
 「日本の洋画が、油絵の具でかいた日本人の絵で通(とお)るようになるのは、まだ幾年さきだか分からないね。日本で一番新しく、進んでいるといわれる白馬会が、まるで西洋人の模倣じゃないか。誰か一人くらい、日本人の絵として許される作を見せてくれてもいゝと思うのに……。岡田という人の絵は今のところ模倣だが、ゆくゝゝは日本人の色や匂いを見せる一人じゃないかと思うが、どうだろう、絵は君の方がよく見えているから、君の意見をきくがね。」
 と言われた時、私ははっとした。私も岡田氏の絵に就いてそういう心を抱いて居ったのだ。先生にずばりと先を越(さいをこ)されて、「私もそう思います。」とも言いかねて、もぢゝゝしていたのである。それで私は話頭を転じて、
 「三宅氏の風景画をどう御覧になりましたでしょうか。」
 とお訊ねすると、先生が言下(ごんが)に
 「あの人は非常に器用(きよう)のように思うね。自然の見方など、まだゝゝ徹していない。あゝ絵の具の臭いを出してはほんとうじゃないんじゃないかね。なかゝゝ熱心な人らしいが……。」
 こうお答えになったので、先生の犀利な批評ぶりにすっかり驚かされてしまった。
 私は高い青空を仰ぎ、木の葉のをりゝゝ翻りちるさまを眺めながら、自然の清(きよ)い爽やかさに、人間の仕事の自然とかなり隔りのあるのを思わずに居られなかった。
 陽がかげると、風が俄かに冷(ひや)ついて来たので、お風(かぜ)をめしてはと先生をお促し(うなが)しして、病院へお送りしたのである。
 病院のベッドにお腰をかけられながら、先生は「今度日本画の会があったら又誘ってくれないか、河合君(玉堂氏)はどうしているかね。」など、いゝ御機嫌でお話しになった。

×

 翌三十六年一月十一日、川合玉堂〔カワイ ギョクドウ〕氏主宰の下萌会〔カホウカイ〕の新年会が牛込〔ウシゴメ〕の清風〔セイフウ〕亭で開かれた時、先生は嘗て〔カツテ〕同会の会歌なるものを作られ、今日はそれを会員一同が歌うというので、先生に是非御出席下さるようにお勧めしてくれと、氏から切〔セツ〕に申出でられ、先生のお伴しに行った。先生は非常に御満足で、会が終った後も、玉堂氏とお話しになられた。
 お帰りという時は、冬の夜はもう十時をすぎていた、お車をとお勧めしたが、月がいいから歩いて帰ろうじゃないかと仰せられたので、その日丁度来合せた尾上柴舟君も一しょに先生におつきして、月が冴えて風のない清夜をいろいろのお話を承りながら、小石川橋、水道橋、お茶の水橋と、あの川すじをたどりたどって、病院の門前でお別れしたのである。その時、何かお名残り惜しくて、私達はしばらくこの門前に佇(たたず)んでいたのであった。柴舟君もこの夜のしみゞゝした心持を書かれたのを、二三〔ニサン〕の誌上で見た。それほど印象ふかい夜であった。
 これが、この世で先生のお供して歩いた終りの夜であった。あの冴えた月の光、ただ三人の世界、その外には何もない清い寂(しず)かな夜であった。
 あゝ時は永遠に過ぎた。
 先生は逝(ゆ)いて再び帰られない。

         ×

 病院から私に下されたお歌は
    わが墓を訪い来ん人は誰々と寝られぬままに数えつるかな
    昨日より今日はさびしくきこえけり明日またいかに入相の鐘
の二首であった。前のはお葉書に書いて下され、後のはお短冊に書いて贈られた。後のはお墨の色がにじみ気味で、お歌の意味と共に辞世らしい感じがして、ものがなしさに胸をとあされるようであった。
 前のお歌には、自分の墓をたずねてくるものは誰々であろう? 数えてみたが、結局はお前だけになるようだ……、こういう意味の事が歌われてあるのだ。私はありがたいような、情ないような、万感〔バンカン〕交々(こもゞゝ)起って、しまいには声を放って泣いたのであった。

         ×

 肉親の父から見はなされ、寄辺(よるべ)のない孤児であった私を救いあげられ、御自分の息を吹き込んで、今日あるに至らしめられた先生の洪恩は、何ものを以てしてもお酬いすることが出来ないほどである。
 ただ一つ、まことに微々たる事ではあるが、一生懸命に先生のお歌の統(すじ)を守って、今日まで終始一貫渝(かわ)ることなく過ぎ来つた事――これは先生が泉下〔センカ〕で微笑していらっしゃることと思われるのである。
 私は余命幾ばくもないと思うが、最後までも先生の道を継承して邁進するつもりである。輓ちかい、私が新体の歌に転向したことは、先生の御志の延長に過ぎない。先生がもし生きて今日までいらしつたならば――、一代の先覚者として真先きに短歌革新を唱導された先生は、私よりも前に転向して居られたことを堅く信ずるものである。
 筆を擱くに臨んで、私は先生の道を益々鮮明にすべきことを思う心で一杯である。これ先生の洪恩に報ゆる一端であると信ずる(了)


(昭和七年九月二十一日発行 短歌講座 第十二巻 金子薫園)


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