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SPITZ HISTORY

〜SPITZ HISTORY〜
「伝説」が誕生するまで


「なんだ、できたじゃん!」
’95年のとある日、岸本道明(きしもとみちあき)は、テレビで『ろびんそん』を歌っているスピッツを観て、そうつぶやいた。
岸本は、かつて新宿のJAMというライブハウスのマネージャーを務めていた。
’87年当時、岸本は毎日平均して3本のアマチュアバンドのデモテープを聴くのが日課だった。
ある日、ちょっと気になるテープを聴く。
ザ・ブルーハ−ツや有頂天などの影響でビートもの全盛の時代である。
そのテープは、リズムこそビート系のものだったが、メロディがやけに印象的だった。
「スピッツか・・・」
その変わった名前のバンドは、やがてJAMの夜の部に出演し始める。
「演奏のバランスだけは、なかなかよくはならなかったですね。荒削りで自分たちの方向が定まっていないようだったけど、
とにかくメロディとボーカルは群を抜いていましたよ」
岸本は当時をふり返り、そう語る。
あれから8年の月日が流れ、ついに誰もが口ずさむようなヒット曲まで生み出した。
いま、岸本はテレビでスピッツの演奏を眺めながら完成された楽曲に思わず微笑んでいた。
シングル『ろびんそん』が約160万枚、『涙がキラリ☆』が約100万枚というミリオンセラーを記録し、
独自の世界を築きあげたスピッツ-。
カラオケで30代、40代までもが好んでスピッツを歌う・・。
それには、何か大きなわけでもあるのだろうか。スピッツの曲には、どこか世代を超越した「音楽の魔力」が感じられる。
スピッツ、中でもその中枢である草野マサムネは、いったいどこでそれを見つけてきたのか。
そんな草野の原風景を探しに出かけてみた-。



’85年。草野マサムネは福岡県立城南高校3年の夏を迎えていた。
土曜の午後、草野は、数人の同級生たちと自転車に乗り、高校から30分ほどの油山(あぶらやま)に向かっていた。
彼らは、暇さえあれば、この油山や川、そして芥屋(けや)海岸などに出かけていた。
油山からは、福岡市内が一望できる。
とくに目的があるわけでもない。頂上まで行って、ただ風にあたるだけだ。
そして、とりとめのない話をするのが常だった。
たとえばうちゅうの果てはどこまでいったらあるか-など。
もちろん、音楽の話も出る。
中心は草野だった。
レッド・ツェッペリン、ザ・フー、セックス・ピストルズ・・・。

幻と消えたバンド名「スピッツ」

あるとき、草野が卒業記念ライブの話を切り出した。
草野と同級生の後藤浩介(ごとうこうすけ・現福岡県在住)たちは、バンドを結成して、卒業記念ライブに出演しようとしていたのだ。
後藤が草野に訊いた。
「サッチ、バンドの名前どうする?」
サッチとは草野のニックネームである。
一瞬の沈黙があって、草野がつぶやいた。
「スピッツがいいなあ」
「えっ?スピッツって・・・、犬の?」
後藤は驚いた。いまではとんと見かけなくなったあの白いうるさい犬のことか-。
「うん、パンクロックやってて、キャンキャン吠えてても、
実は気が弱くて、家に帰ると親とごはん食べてるような・・・」
その場ではウケた。しかし、後藤の「カタカナはイヤだな」のひとことでスピッツの名前は却下。
結局、そのときのバンド名は「からす屋」というものになった。



城南高校時代、草野は、2年生の時に「ラディッシュ」というバンドを作っている。
当時、そのバンドでキーボードを担当していた内山修(うちやまおさむ・現千葉県在住)が語る。
「アースシェイカーの福岡公演に、草野たちとよく行きました。
文化祭でもアースシェイカーの曲を一番多く演奏したんです」
内山はもともと高校に入るまで、ハードロックやへヴィメタルは聴いたことがなかったが、
草野の影響で聴き始めたという。
そして、音楽を接点に急速に仲良くなる。
「草野は昔から歌がうまかった。ギターも学年の中で一番でした。
あまりにうまいので、どのくらい練習してるのか、と聞いたら、
『家に帰ったらずっとギターを弾いている』と言ってましたね」
城南高校では3年間に一度だけ文化祭がある。
草野の頃は、ラディッシュで演奏した2年生の時だった。
同級生はこう言う。
「ステージに出たバンドの中で、草野君のバンドが一番人気がありました。
何気なく聴いてても、あの声に引き込まれるんです。ふだんはおとなしくて、
チャラチャラしてないのに、歌うと目立つんです。みんなが引き込まれていく。
聴いてて鳥肌が立ったのを覚えています」
他の同級生もこんなことを記憶していた。
「ルックの『シャイニン・オン』を草野君が歌ったんです。それを聴いて驚きましたよ。
こんなすごい声だったんだと・・・」
ある同級生は、休み時間に草野がこんなことを言ったのを覚えている。
「僕は将来、アンジーのようなコンサートをやるのが夢なんだ。
”草野正宗”という名前が気に入っているから、プロになっても本名でやっていきたい」
3年で担任だった森山正治教諭は、当時の草野の面影をこう語ってくれた。
「草野は哲学的な雰囲気がありましたね。自分の考えをしっかり持っている。
それでも、こちらの話もきちんと受け止める。プラス思考なんですね。
そんな面から、家庭環境がいいんだな、と思ったことをよく覚えています」
大好きな音楽を堪狽ナきるくらいの経済力のある家庭に育ち、都会と自然がほどよいバランスにある街に暮らし、
仲間にも恵まれた高校時代-。
福岡にはそんな草野の時間があった。

ブルーハ−ツの衝撃とスピッツの結成

翌’86年、草野は東京造形大学デザイン1類に入学する。
ここで草野は、現ベースの田村明浩(たむらあきひろ)と出会い、チーターズ(後にザ・スピッツと改名)というバンドを結成した。
この頃、草野にとって衝撃的なことが起こる。それは、ザ・ブルーハ−ツの音楽との出会いだった。
浪人した後藤が、受験で草野のアパートに泊めてもらった時、草野はブルーハ−ツの『人にやさしく』を後藤に聴かせた。
「いまの時点で俺がやりたかったことを、こいつら全部やっちゃってるんだ。
俺、バンドをやる気がしなくなってしまった・・・」
翌年、草野が武蔵野美術大学に再入学したこともあって、ここでザ・スピッツはいったんは自然消滅の道を余儀なくされる。
しかしブルーハ−ツの衝撃、それは同時に草野の新たな音楽への道の模索の始まりでもあった。
「好きだけど、同じことをやっていてもしょうがないじゃないか-。
武蔵美に入学してしばらくした頃、田村は中学時代からコピーバンドをやっていた三輪テツヤ(みわ)を草野に紹介した。
バンド活動を再開しようと持ちかけたのだ。
さらに、三輪と同じ文化服装学院にいた崎山龍男(さきやまたつお)がドラムとして参加することになる。
’87年、ザ・スピッツはスピッツとなり、現在の原型を形成し、少しずつ活動の範囲を広げ始めていた。

高校時代からの夢、新宿ロフトでのライブ

’89年2月。新宿にある老舗のライブハウス・ロフトでオムニバス・ライブ『マジックボックス・パラダイス』が行われていた。
その中にスピッツがいた。
新宿ロフトのマネージャー荒弘二(あらこうじ)は、オーバーオールにアコースティックギターがトレードマークのボーカル、
草野マサムネに注目していた。
「メロディも声質も抜群によかった。たてノリとじっくり聴かせる二面性を感じて、一発で気に入ったんです」
スピッツのメンバー、とりわけ草野にとって、この新宿ロフト出演は大きな目標であった。
高校時代から夢にまで見た晴れの舞台だったのだ。
’80年代の後半から’90年初めの一大バンドブームは、記憶に新しい。
ザ・ブルーハ−ツ、筋肉少女帯、アンジー、ジュン・スカイ・ウォーカーズがデビューし活躍。
さらに、テレビの勝ち抜きバンド番組『イカ天』、原宿ホコ天からの勢いも手伝い、ブームは絶頂期を迎える。
’89年から’90年のことだ。
やがて、『イカ天』出身のフライング・キッズ、人間椅子、たま、クスクスがデビューし、バンドブームはピークを迎える。
スピッツは、そういったバンドブームとは一線を画していた。
彼らは「ロフト」に育てられ「ロフト」でのワンマンライブや、ツアーをこなし始める。
誰の目にも”メジャーデビュー”という次のハードルが見え始めていた-。
この頃、スピッツのライブの観客席には常連に混じって、必ず見かける男がいた。
それは、占いライターからポリドールのアシスタント・ディレクターに転身したばかりの竹内修(現ディレクター)だった。
たまたま知り合いから紹介され、ロフトのオムニバス・ライブを観に来たのがそもそものきっかけだった。
そこで、スピッツに出会い、すべてのライブ、そしてツアーにも顔を出すようになる。
とくに圧倒されたとか、スピッツが異彩を放っていたというわけではなかった。
ただ、当時のバンドブーム、ことにライブハウスでのバンドは「ノせたもん勝ち」というのが主流にあったが、
スピッツだけは、まったくのマイペースというのが不思議だった。そして、彼らの妙なこだわりに何かかのうせいのようなものも感じていた。
竹内にとって、レコード会社の人間として初めて接するバンドがスピッツだった。
「どういうふうにしたらバンドと仕事ができるのかわからなかったんです。だから、いつもそこにいるしかなかったんです」
’91年にスピッツはいよいよデビューを果たす。
ところが、周囲の期待とは裏腹に、華々しい成果はあげられなかった。
’91年3月25日、待望のメジャーデビューアルバム『スピッツ』がリリースされ、続いて、セカンドアルバム『名前をつけてやる』、
’92年サードアルバム『惑星のかけら』が出る。が、ここまでは、オリコン100位にも入っていない。
しかし竹内は信じていた。どんなことを言われようと、絶対スピッツはブレイクすると。
その最大の根拠は草野の楽曲だった。
「詩と曲のバランスが絶妙なんです。こういう曲なら、こういう歌詞という当たり前のところに持って行かない。
そんなバランス感覚がある」
さらに、スピッツにはデビュー当時からメディアを中心にしたコアなシンパがいた。
「メディアの中では『やっぱりスピッツのニオイってあるよね』『これ好きだな』という人たちが定着して、
4枚目のアルバム『Crispy!』あたりで大阪を中心に地盤がどんどん固まっていったんでしょうね、
’94年は売り上げとしては順調に伸びているんですが、それ以上に曲のクオリティが非常に高かったんです。
それでシンパを筆頭に、知らなかった人にもスピッツに対する信頼感ができたんだと思います。
いつ売れてもおかしくないと思っている人たちが多かった。その蓄積が『ろびんそん』という火にワッと燃えあがったという気がしています」
草野自身、当時、同級生の後藤に、「業界の人には評判がいいんだ。センスが伝わったんだな」と打ち明けている。
4枚目から共同プロデュースを手がけることになる笹路正徳(ささじまさのり)も言う。
「スピッツの場合、彼らの詩や曲の世界は、僕が会った時にはもうでき上がっていた。
微妙な部分のあるバンドなんで、最初は魅力を理解するまで時間がかかりました。いまは、すごく自分でもわかってきたつもりですけどね・・・」
すべての現象は、’95年春「ろびんそん」の発売で証明されることになる-。

『ろびんそん』のヒットで、一躍、メジャーに

’95年、フジテレビのプロデューサー鈴木恵悟(すずきけいご)は、新番組のための新鮮なアーティストを物色していた。
そして、資料として集めた見本盤の中から、聞き覚えのある名前を見つけた。
-「スピッツ」
鈴木のブレーンは、高校生の娘の友人たちだった。
音楽に詳しい彼女たちから、スピッツの名前をすでに聞いていたのだ。
CDを聴いてみると確かにいい。もう、5枚もアルバムを出しているのに、どうして売れないのだろうと不思議に思った。
そして、娘の世代と自分たちの世代の両方がいいと思えるのも不思議だった。
ある日、鈴木のもとに、レコード会社とは別のルートから、スピッツが番組の曲を書き下ろすという売り込みがあった。
「それで、スピッツのCDの購買者の資料を見せてもらったんです。
するとCDを買っているのが中高生だけじゃなくて、OLも入っていた。
これは一過性では終わらないと直感で思いましたね」
鈴木は、番組を意識しないで自由に曲を作って欲しいと頼んだ。
そして、でき上がってきたのが『ろびんそん』だった。
鈴木はさっそくブレーンの高校生たちに曲を聴かせてみた。
「彼女たちは『これは歌える』って言うんですよ。そうか、詩をきちっと歌える曲というのは最近ではなかったな、
と気づいたんです。だから、この詩が定着すれば売れるんじゃないかと思った」
新しいアーティストということで、現場からは反対の声もあったが、鈴木は食い下がり、結局新番組『シブヤ系うらりんご』のエンディングに30秒
『ろびんそん』のサビが流れたのだった。
『ろびんそん』『涙がキラリ☆』のシングルに続いて、9月20日、アルバム『ハチミツ』がリリースされた。
もう完全に舞台は作られていた。
『ろびんそん』は初登場9位。最高で4位を記録する。
さらに追い打ちをかけるように、テレビドラマ『白線流し』で、1年前のシングル『空も飛べるはず』が主題歌に起用され、
ますます注目度に加速がついていく。

郷愁感を誘うのは、’70年代歌謡曲の影響

草野は、小学生の頃から洋楽を聴きまくり、集めていたレコードの数もハンパではなかったという。
同級生の後藤と草野は、上京してからもよく奥多摩などに出かけて行った。
その時、草野の車のカーステレオから流れてきたのは、’60年代、’70年代の歌謡曲やポップスだった。
トワ・エ・モア、赤い鳥、小坂明子、ドノヴァン、ミッシェル・ポルナレフ・・・。
彼がまだ10代にも達しない頃の曲ばかりだ。
30代、40代の中年男性がスピッツを歌いたくなる理由のひとつに、この草野の先祖返りのような音楽の好みがあるのではないだろうか。
流行や時代で左右されない「いい曲」というのは確かにある。それを草野は長い間探し求めてきたのだ。
そして、もうひとつ草野の巧みさが現れているのが言葉の使い方である。
音楽プロデューサーの白井良明(しらいりょうめい)はスピッツの魅力を共感と郷愁感に尽きると言う。
「体験を歌うこと。自転車とか誰もが思い出にあるものを歌詞に盛り込んでいる」
そして集められた言葉が、独特の世界観を形作る。
草野は気に入った言葉を保管しているフシもある。
バンド名のスピッツもすでに高校時代に考えついていたものだし、『ろびんそん』は、休暇で行ったタイのデパートの名前から取っている。
新曲の『チェリー』も以前から使い道を考えていたという。この2曲は憎らしいことに実際の歌詞の中では一切タイトルの言葉が使われていない。
『渚』は、大学の生物学の授業で出てきた時に「海でも陸でも空中でもない場所」としていつか使おうと思っていたらしい。

人々の感性をくすぐる「懐かしさ」というキーワード

草野の曲には、誰しもが懐かしさを感じてしまう「音と言葉のDNA」のようなものがあるような気がしてならない。
それは、いつの時代にも場所や姿を変えて、ある者を語り部にさせるのかもしれない。
いつの間にか草野の中に染み込んでしまったそれらのエキスが、草野の声を使って音になって姿を現す。
そしてそれはかつて「いい曲」に心揺さぶられた記憶のある大人の感性をもくすぐり、
「どれ、僕も1曲」とスピッツの曲を歌わせられてしまうのだ。
かつて一世を風靡(ふうび)した音楽ディレクターがこんなことを言ったことがある。
「理由はわかりませんよ。でも、世の中で、すごくたくさんの人を『いいなぁ』と感じさせることのできる音楽は、決まって、
間違いなく、どこか懐かしいんですよ。でも、それは狙ってやれることじゃない。狙ってできたら、僕は毎日、それをやってますよ」



草野が育った福岡市の郊外では、荒んだものは何ひとつ感じられなかった。
平凡な街だった。自然があり、街があり、家と学校と、庭づくりを楽しむ人の多い場所だった。
しかし、草野の歌う言葉がそこら中にあふれる「かわいい」場所でもあった。

★雑誌「Views」1997,2月号より

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